大和屋政助船蔵
江戸時代、富海から大阪へ物や人を迅速に運ぶ瀬戸内の
飛脚船「飛船(とびふね):2反帆・8石積・船頭2人乗」
が盛んであった。浜辺に接岸し、地下1階の開口部から
頻繁に物や人が出入りした船蔵が今に残る。大和屋政助
(本名清水与兵衛)は、飛船問屋を業とし若くして「飛船
年行事当番」等の町方世話役を勤め、幕末期には勤皇の
志士達の活動を支援した。文久3年(1863)に天誅組
の変で敗れ、京を逃れた公家中山忠光(明治天皇の叔父)
がこの船蔵の2階にしばらく潜伏した。元冶元年(18
64)には長州の内戦で追われた高杉晋作は徳地から大平
山の間道を抜けてここに逃げ込み、政助は嵐の中直ぐに
飛船を出させて晋作を下関へ送った。
富海駅からのアクセス
- 約0.7Km
- 徒歩約6分

伊藤井上両公上陸遺蹟碑
元冶元年(1864)、英国留学中の長州ファイブのうちの
伊藤俊輔(23歳)・井上聞多(29歳)は、英米仏蘭4ヶ
国連合艦隊が馬関(下関)を攻撃するという新聞記事をロン
ドンで見て、「これは危ない、阻止せねば長州、いや日本が
滅ぶ」と思い立ち、英国留学を中断して急きょ帰国。横浜
から英国軍艦で姫島まで運んでもらい、6月24日早朝姫
島から土地の庄屋手配の小船で発ち、昼前西町の飛船問屋
入本屋(入江礒七宅)に密かに上陸した。すぐに富海の勤皇
の志士・入江石泉から藩や京都の情勢の情報を入手、食事
を済ませ外国艦隊との戦い回避を訴えるべく藩主毛利敬親
の居る山口へ向った。彼らの努力にもかかわらず無謀にも
開戦に至り、長州は大敗を喫した。戦後処理の交渉に彼ら
が活躍したのは言うまでもない。
富海駅からのアクセス
- 約0.6Km
- 徒歩約5分

大内輝弘自刃の地
大内輝弘は大内義隆(大内氏最後の領主で長門市大寧寺で
自刃)の従兄弟。永禄12年(1569)毛利氏が九州の
立花城を攻めている際、豊後(現大分県)から秋穂(吉敷
郡秋穂町)へ上陸し、山口を占領した。しかし毛利の軍勢
が引き返して来たため、豊後に逃げ帰ろうとしたが船が
なく、陸も海も毛利氏の軍勢に囲まれて、逃げる場所が
なくなり、富海と牟礼末田の境の茶臼山で自刃した。
茶臼山中腹に輝弘が切腹した所と伝わる「腹切岩」がある。
富海駅からのアクセス
- 約1.2Km
- 徒歩約30分(途中急な「たちばな坂」あり)

琴音の滝
門前地区の海門山瀧谷寺の開祖の頃より、寺山の東に
「琴音の滝」、西に「鼓の滝」(瀬戸内海を航行する船から
遠望されていたが今は見られない)が存在し、里人に親し
まれてきた。琴音の滝は水源を大平山に発し、流れ落ち
た水は鮎子川(同地区の古老達は大久保川と呼んでいる)
を経て瀬戸内海へ広がる。明治42年、春の新緑、夏の
清涼、秋の紅葉に注目し、滝への道を整備したのが当時
の村長小野田陸馬である。料亭もでき、文人墨客をはじ
め多くの人が訪れた。 琴の音と 名に負う滝の 下に
来て 夏をよそなる 調べをぞ聞く(池辺義象・歌人)
滝不動は、昭和26年徳山市(当時)黒髪石材の梅田氏
により勧請されたものである。又、琴音の滝から下流の
小滝を含み琴音の五滝とか、もっと上流を含めて琴音の
九滝と呼ぶ人もあり、之を探索するのも一興かと。
富海駅からのアクセス
- 約1.8Km
- 車約6分(駐車は、滝の入り口周辺)
- 徒歩約25分
光福寺薬師堂
光福寺は、平重盛の會孫の金剛坊南岳(こんごうぼうなんがく)
大僧都が、壇の浦の戦いにおいて源氏に敗れた平家一門の菩提を
弔うために、建暦元年(1211)に開基したとされており、
当時は、石原地区の御堂山(みどうやま)、春日野(かすがの)、
三石(みついし)一帯に及ぶ壮大な寺院であったと伝えられて
いる。堂内の薬師如来像は昔から「石原の御薬師様」と信仰され、
かつては5月8日の縁日に、甘茶・たけのこ飯の接待が行われて
いた。
富海駅からのアクセス
- 約2Km
- 車約7分(駐車は同寺周辺)
- 徒歩約30分

毛利時親卿墓
毛利元就より11代前の毛利当主で、安芸吉田(現・広島県
安芸高田市吉田町)毛利の始祖。領地河内国加賀田(現・大
阪府河内長野市加賀田)に住んでいた折、のちの楠木正成
(くすのきまさしげ・鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将)
に兵法を教えたといわれる。暦応4年(1341)、時親は家
督を孫に譲り、出家して名を了禅(りょうぜん)と改め、吉田
を出て西へ向い富海村に入り、この地で老後を過ごし、死した
であろうといわれている。墓は江戸時代後期に付近の畑で発掘
されたものであり、祠の中の墓石には表に大江時親、裏に了禅
と刻まれている。
富海駅からのアクセス
- 約1.6Km
- 車約5分(側に駐車場あり3台)
- 徒歩約20分

脇古墳
脇地区、古墳時代後期に造られたと思われる横穴式石室
の古墳。現在は上の土が流れて、石槨(せきかく:石組み)
が露出しているが、玄室(げんしつ)と羨道(せんどう)
からできていて、玄室は大きな蓋石二枚で覆われており、
中からは須恵器の破片が見つかっている。
「付近の標高10~15メートルのところから漁網の土錘
(どすい)が発見されており、このあたりを昔は船岡(ふな
おか)といわれていたことから、古代の海上交通や漁業の
根拠地であったのであろう。」『防府市史』より
富海駅からのアクセス
- 約1.6Km
- 車約5分(国津姫神社隣「富海憩いの家」広場に駐車、そこから徒歩5分)
- 徒歩約20分

国津姫神社
富海村史稿には、承平5年(935)、國津姫大明神のご宣託に
より、その社殿を脇地区船岡山(岡の宮)より浮洲(現在の社地)
に移転し、新たに造営したとある。よって、それ以前の極めて古
い時代に、この神は脇地区に祀られたものと思われる。なお、江
戸時代の延宝(1673年~)の御代に2~3年余、門前地区の堂
場山に鎮座している。祭神は宗像(むなかた)大社、厳島(いつく
しま)神社と同じ海の女神三柱で、田心姫命(たごりひめのみこと)、
湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。國津姫の社名は、三女神の中の湍津姫命のこととする記述と、地元
の神夏磯姫(かんかきひめ)もお祀りしてあるからと記載している資
料とがある。明治5年、国津姫神社の管理を行っていた神祥寺の跡
地(現在の富海憩いの家)に寺子屋を引き継いだ徳山部第4小学(富
海小学校の前身)ができた。
富海駅からのアクセス
- 約1Km
- 車約4分(駐車場10台)
- 徒歩約15分

富海本陣跡
江戸時代山陽道沿いの富海本陣は、宮市から福川本陣への
途中の半宿であり(宮市から2里、福川へ2里半)、大名
行列の休憩、あるいは長崎奉行やオランダ人(出島居留)、
日田御用金運送などの比較的小規模な人数の宿泊に利用
された。徳山藩に属し、富海町年寄が支配していた。
元禄16年(1703)10月
長崎奉行宿泊
文政9年(1826)11月
本藩の寧姫江戸屋敷より萩へ引越の際宿泊130余人
弘化3年(1846)7月
島津斉彬下向(異国船琉球へ渡来)の際休憩
嘉永6年(1853)9月
薩摩天璋院篤姫江戸に向う際休憩
などの記録が残っている。
富海駅からのアクセス
- 約0.7Km
- 徒歩約6分

登録有形文化財 清水家住宅主屋
清水家住宅主屋269㎡(約82坪)は、明治の中頃に建築され
た古い建物であり、歴史的景観と造形に優れ、その保存、活用が
特に必要なものとして、平成27年に国の登録有形文化財に登録された。当家の家業は江戸時代から明治にかけて酒造業を成し、歴代、富海村の世話役として活躍し、幕末には徳山藩へ多くの献納、献金を行い徳山藩士となる。現在、毎週水曜日の午前中、
「とのいちマルシェ」が清水家住宅において開催され農産物をはじめ食品・雑貨類など色々なものが販売されている。人と人の繫がりを構築するとともに、歴史的建造物である清水家住宅を地域の財産として後世に引き継ぎ、活気溢れる地域の再現を目指すことを目的としている。
富海駅からのアクセス
- 約0.8Km
- 徒歩約8分



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